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2008年7月の投稿

2008年7月26日 (土)

中国旅行その2

 これも王さんから聞いた話だが、毛沢東の時代に育った人たちは平等を良しとし、働かなくても一定の生活が保障される社会がよいと思っている。改革・開放政策を推し進めた鄧小平以降の人は、競争のなかで頑張った人が、応分の報酬を得るべきだと考えている。

 人間の考え方は、社会の構造変化によって大きく変わる。その構造変化は、資本が主体で変える場合もあるし、国家による政治主体で変わる場合もある。中国の場合は後者のケースである。かくも急激な変化は類を見ないものではないか。したがって、当然ながら取り残される人々が発生する。彼らは、教育の機会を持たなかった人たちである。もはや這い上がることができない。貧困の再生産過程に入り込むのである。前にも書いたが、そういう下層の人々を組織する勢力がない。政党、宗教団体、労働組合など。民主主義のプロセスが存在せず、再配分が行われにくい。

2008年7月21日 (月)

中国旅行その1

 合弁企業の工場建設を視察するため中国旅行に出かけ、今日帰ってきた。その間に、考えたことを数回にわたり書いてみたい。

 上海を案内してくれた旅行社の王さんからいろいろ話を聞いた。中国の社会は急激に変化しているが、生活実感として変化が強く意識されたのは1998年ごろだという。生活といえば衣食住であるが、これが豊かになってきたのである。これは、日本の社会の変化とも大きなつながりがあるのではないか。1998年といえば、日本の企業が思い切ったリストラを開始した時期であり、その影響で、一気に自殺者が増加し、年間3万人を超えたのである。それ以来10年にわたって3万人を下回っていない。

 日本の凋落が中国の発展を誘発したのか、中国の発展が日本の凋落を招いたのか。あるいは関係がないのか。不勉強で、うまく説明はできないが、日本の経済が停滞した時期に、中国は成長に弾みをつけているように思える。日本に投資する魅力がなくなって、その分が中国に回るという図式が成り立たないだろうか。13億人の生活が向上すれば市場は自ずと拡大する。日本の資本も進出し、中国に移転した利益を再び取り戻そうとしている。しかし、それはごく一部の大手企業である。

 全体が均等に発展することはない。良いところがあれば悪いところが出てくる。あるいは、悪いところがあるからこそ発展する企業や地域や国家がありうるのではないか。それは好ましいことだと思わないが、今ある発展の力学である。

2008年7月13日 (日)

天野節子 「氷の華」

 久しぶりにミステリーを読んだ。昔風に言えば、推理小説の範疇に入るのだろうか。この作品は天野節子という人のデビュー作である。デビューしたといってもこの人昭和21年生まれだから驚きである。

 文庫で5百ページ(昔に比べて字が大きい。中高年にはやさしい作りです。)の大作であるが飽きずに読みとおせた。全体にバランスがよいのだろう。構成要素のひとつひとつには新奇なものは感じないが、うまく組み立てているという印象があった。

 こういうサスペンスものは、特に「偶然」がものをいう。たとえば、この話のなかで、殺害される女性が帰省中にたまたま勤め先の上司のひき逃げ現場に居合わせるのであるが、こういうことが起こる確率はゼロに近い。しかし、これがなければ話はつながらない。そんなことありえないという思いにとらわれないのは、読者がそういう前提をあらかじめ持っているからだろう。私にしても松本清張や佐野洋をけっこう読んできたので、この場面はつぎにどこにつながるのかという関心をもって読み進むことになる。

 刑事の追及の執拗さという点では、松本清張ほどのすごみはない。清張はしつこい。犯人の「悪さ」加減も尋常ではない。とはいっても、犯行に及ばざるを得なかった事情の説明は念入りである。その事情にこそ、主題があるように見える。

 清張との比較はあまりに厳しい話である。62歳で初めて出版した(初めて書いたかどうかは分からない)ということには意味がある。関心があり、技量もあるのに書く機会がなかった人も数多いであろう。そういう人のなかから書き手が出現する可能性は、まだまだあるのではないか。

ホームレス中学生

 昨晩テレビで「ホームレス中学生」を見た。これは多くの人が知っている漫才コンビ麒麟の田村が書いた原作をテレビドラマにしたものだ。久々に清々しいドラマを見た気がする。

 いろいろ面白いというか、参考になる点がある。ひとつは、だれもがホームレスに陥る可能性があるということ。父親が癌になって入院中に勤め先でリストラが進み、彼もタイミング悪く対象にされてしまう。療養中は収入がなく、新しい勤め先を探すのも難しい。家のローンが残っていたらなおさらだ。まず一戸建ての持家からアパートに転居する。次に借金を返せないので差し押さえにあってしまう。住むところがなくなる。

 そんな厳しい状況のなかでも、家族愛と地域の人たちの互助精神は救われる要素である。家族愛は別(これはそんなに簡単になくなりはしないであろう)にしても、地域社会がまだ残っているのは救いである。現実には急速に崩壊しつつあり、消滅しそうな状態であるが、社会の大きな変動のなかで新しい社会的関係、新しい人間関係が形成されるときに、再生の胞子となるのではないか。少なくとの互助の記憶が残っていおれば絶滅を避けられるのではないか。

 話はそれるが、見ていて涙が何回も流れた。私は元来涙もろく、安っぽいドラマでも泣けることがある。泣けるドラマや映画だけがいい作品とは限らないが、心の肥やしにはなると思っている。最近見た映画では(DVDであるが)「壬生義士伝」がよかった。これは浅田次郎の原作で、テレビで10時間ドラマにもなったが、映画の中井貴一と佐藤浩市の演技が素晴らしく良さが際立っている。他に泣けるものを挙げると、今は見る機会がなくなってしまったが、藤山寛美の新喜劇があるし、落語の人情話もよい。

 最近はお笑いの番組が多く、若者は好んで見ているようであるが、人生は泣き笑い。涙なくして、人生はない。不幸な人間に、涙はない。

2008年7月 6日 (日)

弱者に厳しい

 今朝のテレビで、財政破綻した夕張市のその後の様子が報じられていた。3百億円を超える借金のうち、前年度に11億円返済したそうである。とった策は、職員の半減、市民病院の診療所への縮小、事業の中止などである。その多くは住民へのサービスの低下や負担増につながっており、借金のつけは住民へという図式が当たり前のように受取れた。地元の産業は疲弊しており、働き手は転出していき、残るのは高齢者である。高齢者にとっては厳しい実態がある。これは夕張だけの問題ではない。一部の例外を除いて大半の自治体は大赤字なのである。夕張のようになりたくなかったら早めに住民に負担をもとめて手を打ちなさいというメッセージである。

 これは国のミニチュア版である。国の財政危機もはなはだしい。それは事実。そして同じく解決策は国民の負担を大きくして、これ以上の借金は抑えようというのである。前にも書いたが、なぜ借金が増えたのか、だれに責任があるのかという点はなかなか表に出ない。とにかく大変だという宣伝がなされるだけなのだ。いまある国家、いまある体制が大事なのであって、それを守らなければ未来はないという主張である。しかし、いまある体制がなくなって一番こまるのは官僚ではないか。彼らの活動するフィールドを失いたくないのである。

 杜甫の有名な詩の一節に「国破れて山河あり」というのがある。これに代えて国破れて生活あり、と歌いたい。戦後、市街地を破壊され、交通網が寸断されたなかでも復興を遂げてきた。今、国家が破たんしても、社会資本がそのまま残れば、新しい仕組みは作ることができる。生活者の営みは変わらず、続けられるのである。

 国の施策は弱者に厳しい。かつて、知人のAさんが難病にかかり、付き添って市役所に相談に行ったことがある。事前に申し込んであったので、医師も同席し、簡単に問診もしたが、結局は病院にいって診断してもらったらよいという結論しか出なかった。それを受けて今度は病院に行ったが、治療はできても生活のことは役所へ行ってもらうしかないという。いわゆるタライ回しというやつである。近所の馴染みの医者にも聞いてみたが、生活保護の書類は書いてあげることはできるが、少しでも財産や預金があると保護は難しいねよ言うことであった。Aさんにできることは、貯えを切り崩しながら、投薬とリハビリを続けることである。しかしいずれ蓄えは切れる。そうなったとき、だれが面倒をみるというのだろうか。

環境問題、エネルギー問題、食糧問題

 世界的規模で考えなければならない問題として環境問題、エネルギー問題、食糧問題の3つの問題がクローズアップされている。今や、3つの危機と表現する方が適切である。エネルギー問題と食糧問題は合わせて資源問題として扱われる場合もある。

 「危機」であるから、それへの対応は可及的速やかに行われなければならない。国家、市民社会(市場)、個人のレベルに至るまで変革が求められている。予算配分、制度の変更。省エネ対策、生産設備の更新、製品の仕様の見直し。ライフスタイルの変更。などである。

 いろいろやるべきことはあるが、ひとまず国家レベルでは政治家と官僚に役割を果たしてもらわねばならない。とはいえ、その自己保身的本質から考えて、抜本的な改革の発想を期待するのは難しかろう。市場レベルでいえば、企業が環境配慮製品をスピーディーに提供していく必要がある。いい意味で先を競うことが大事である。個人レベルでは、生活の仕方や物の購入の仕方を変える必要がある。今まではたくさん物を買い、消費することが豊かさの基準であったが、自分のよしとするライフスタイルに合わせて物を買い、消費するという合理的精神が求められる。それは、「耐乏生活」というようなストイックなものではなく、新しいスタイルの創造というポジティブな活動としてとらえなければならない。

 以上のことはいち早く行わなければならない。基本的に日本人は危機意識に乏しい。それは決して日本人が劣っているということではなく、歴史的な背景があると思うが、今やそういう論議をしている場合ではなく、「いざ」という時のために備えをしておくべきであるということだ。パン食の機会を減らし、米を食べるようにすべきだろうし、一汁一菜は行き過ぎにしても過剰なカロリー摂取は改めよう。このことにより、食品メーカーは影響を受けるに違いないが、それに限らず、生活の見直しによって様々な分野の負の影響が出るだろうから、国民が広く等しく背負うべきではないか。

 世界の変化に対応して、未来の日本がどうあるべきかを個人レベルで考えなければならない。政治家や官僚には考える能力も意思もないから(変えれば既得権を失うのであるから)変革の主体はもう一度個人レベルから再構築されなければならないのである。

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