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2008年3月の投稿

2008年3月30日 (日)

人間は進化しているか

 社会がここ数百年、特にここ数十年の間に急速に発展してきたことには疑問を差し挟む余地はないようである。しかし、ひとりひとりの人間はそれと同じように進歩しているのであろうか。

 すでに紀元前の時代にアリストテレスや孔子のように体系だった哲学や思想を残している。これは余人にはできない超人的な業績であるが、はるかに発展した現代においてもそれに匹敵する仕事はないように思う。素朴にそう思う。

 社会の発展の度合ほどには人間は進歩していない。逆に社会が発展したおかげで、人間を守る仕組みが出来上がり、いろいろな能力を身につけなくても生きていけるようになってしまったのではないか。時々思うことがあるのだが、仮に無人島にひとりで漂着したとして、江戸時代の人間と現代の人間とではどちらが生き延びる可能性が高いだろうか。当然江戸時代の人間であろう。現代人は火のおこし方すら知らない。

 これは極端な例であるが、分業が極端に進み、ひとりの人間ができることの範囲が非常に狭くなってしまった。それでも、技術革新があり、装置化、システム化されることにより、ほとんど何もしなくても生きていけるようになった。そういう進歩は一部の天才的な才能によって開発されていて、その恩恵を多くのひとが享受している。マクドナルドでバイトしている女の子は、マニュアル通りに振舞っておれば時給800円ぐらいは貰えるのである。その仕事は言葉さえ発することができれば勤まるのであり、学校教育の成果のかけらも必要ないのである。

 そういうことを考えると、教育の生産性はあまりに低いのではないだろうか。個々の家庭が教育にかける費用も大きいが、自治体や国がかけるコストも膨大である。小学校から大学まで、一人の国民にかかる費用は数百万円どころではすまないだろう。それだけかけても国際的にみて学力の水準は低下しているのである。学校を出ても企業という組織のなかで仕事をしていく能力は身についていない。学校で学ぶのは一体何なのか。問題を解いて答えを出すだけか。考える力はまったくと言ってよいほど付いていない。

 しかしそういう人間が増えるほど、悪賢い人間に国家は操られるのだ。社会は総体として退化していく。退化は、既得権益を握っているエリート層の地位を安泰にするのである。本当に中身のある教育を実施すれば、エリートの固定化を阻止することができる。それが流動性に富んだ、発展性のある、他国に負けない社会を作ることになりはしないか。

2008年3月23日 (日)

高校野球選抜大会始まる

 春の高校野球が始まった。夏の選手権に比べマスコミの取り上げ方が弱く、盛り上がりに欠けるのは事実のようだ。

 夏の特徴を挙げてみると違いがわかる。ひとつは、夏は予選と本大会が続いていて関心が徐々に高まっていくこと。二つ目には、夏の大会がチームとしての仕上げの大会であり、3年生にとって最後の試合になること。三つ目は、夏休みでOBが応援に駆け付けやすいし、一般のファンもお盆休みでテレビ観戦しやすい。四つ目は、高校野球は汗と涙のイメージが強いこと。こういうことが理由で盛り上がりの差になるのであろう。

 では春の大会は面白くないか。高校生の試合はどうなるか読めないところがあって、その点では夏も同じだが、秋の地区大会から5か月も間が空いていることから、その間に大きく力を付けている選手もいるし、十分伸びきれていない選手もいる。したがってチームのなかでも、チーム間でもアンバランスがあって、それが不確実性を生むのである。予期せぬ逆転劇が起こる要素が多分にあって、そこが面白さである。

2008年3月16日 (日)

経営は芸術である

 多くの経営学者と経営者が「経営は芸術だ」と言っている。今日、藤沢武夫の「経営に終わりはない」という文庫本を読んでいたら、ここにもそう書いてある。

 引用すると、長くなるが、「そのような出会い(本田宗一郎との)があって以来、私は人間を判断するときには、その人の家庭を見るようになりました。人と人の間を結びつける条件は、まず信頼であり、いたわり合いであると思います。その基本は家庭にあるんですね。だから、家庭を大事にしない人、奥さんを大事にしない男はだめです。芸術というものが人と人との結びつきから生まれるものであるとすれば、家庭も芸術でなければならないし、経営も芸術だろうと思うんです。」

 経営学者が経営は芸術だという時の意味とは違うようだ。経営学者のいう意味は、経営を成功に導く方程式はなく、経営者の感性や思想に負うところが大きいという意味である。それに対し、藤沢が言う意味は、経営は人と人との協働作業であり、単に一人の天才のなせる技ではないということではないか。

 経営は経営学の理論を身につけただけでできるものではない。経営は分析ではなく、いりいろな要素の総合である。その中には「人」が含まれる。熱意と気配りがなければ人は動かないのである。その采配の妙が、芸術といえるのではないか。

2008年3月 9日 (日)

誤解の活用

 ある事実を示して、それをどうとるかは相手の判断によるが、意図して相手の誤解や錯覚を誘うことは可能である。ある状況、ある話の文脈において、ひとつの情報を投げた時に、相手はこう解釈すると推測して仕掛けをするのである。嘘を言うのではないが、ある種の引っかけであって、結果として相手に経済的損失を与えれば詐欺にあたるのだろう。

 悪意でそれを行うことはいけないが、たとえば男女の恋愛における駆け引きのなかで、もちろん悪意ではないが、利用されているのではないか。デートの時、女性が弁当を持ってきて男性に食べてという。男性は感激して、おいしいと言って食べる。それは実は母親が作った弁当だった。女性はとくに断らなかっただけで、嘘をついたのではない。男性が自分のために本人が作ってきたと思いたかっただけのことである。結婚してから味の違いに愕然とするかもしれないが、結婚するまでにバレてしまうことだろう。できてからバレたところで大した問題はないのである。断わっておくが、これはわたくしの経験ではない。家内は自分で作ってきた。

2008年3月 2日 (日)

人間の土台

 ピラミッドのように土台が広く、しっかりしていると、その上に高く積み上げても崩れることがない。逆に、底辺が狭いとちょっとした力で倒壊してしまう。

 建築物にたとえたが、言いたいのは人間の大きさを決めるものは何かということである。一言でいえば、一定の下積み期間が必要だということだ。現場での試行錯誤の経験、失敗からの学習があってこそ状況への対応力が育つ。どんなことが起こっても慌てずどっしり構えることができるのはこの経験の賜物なのだ。たたぎ上げの経営者に安定感や人間の大きさを感じるのは、そういう背景があるだろう。留学して、MBAを取得して、外資のコンサルタント会社や証券会社を経て新興企業や再生企業のトップを任される人が少なからずいるが、論理的思考や米国流の経営手法、方法論だけでは企業の運営はうまくいかないだろう。組織のメンバーを統率するには、皆が納得して後をついていけるだけの人間の魅力が欠かせない。それは自分たちよりも苦労してきたという実績であろう。それが伝説としていくつも積み重なるとカリスマ性を生むことになるのである。

 経営者に話がいってしまったが、一般の社員の実力についても同じことが言える。頭がよくて論理的思考に優れていることは大変結構なことで、そういう人材は欲しいところだが、それだけで仕事ができると考えるのは早計である。いろいろな現象、問題が発生する現場でそれを解決するには経験に基づいた判断力が必要だし、人の協力を得ることも必要なのである。そういう技量は頭の良さとは直接関係ないのである。

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