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2007年7月の投稿

2007年7月17日 (火)

お休み

パソコンを修理に出すので、しばらくお休みです。返ってきたらすぐに再開します。

2007年7月16日 (月)

オシムの言葉

 サッカーはチームスポーツなので戦い方にその国の文化的な特徴が出る。オシムは日本のサッカーについてよく発言しているが、ある雑誌で以下のような見解を示している。「私は日本人に、あまり責任や原因を明確にしないまま次に進もうとする傾向があるように思います。」上手くいっても、失敗しても「OK」で済ませてしまうと言うのだ。マスコミも結果を追い求める。勝っても内容が良くない場合もあれば、負けても内容のいい試合もある。大事な試合は結果を出さなければならないが、それまでの試合は中身が大事である。上手くいった原因、失敗した原因を追求することによってプレーのレベルを上げることができる。

 話は大きくなるが、なぜ戦争に突入したのか。戦争の責任は誰に属するか。曖昧なままここまで来てしまった。提起している人は少なからずいるが、国民的な議論にはならなかった。

2007年7月15日 (日)

羽生善治の言葉 

 対談のなかでこう話している。「人間の思考って、さほど論理的ではないと思うんですよ。」何十手先を読むといわれる将棋の名人クラスのいう論理的でないとはどういうことか。将棋は理詰めのゲームであるが、たくさんある選択肢のなかから一つを決断することは最後は直感に頼るしかないということである。しかし羽生は一般人よりはるかに論理的な思考をしている。そういう人が言った言葉だから面白い。

2007年7月14日 (土)

台風

 この時期には珍しく台風4号が近づいてきている。紀伊半島に上陸しそうである。大阪に住んでいると台風が直撃するということは珍しいことである。

 生まれが今で言う東紀州なので子供のころから台風は何度も経験している。強い風、激しい雨、高い波。決して歓迎すべきことではないが、なにかわくわくした気分になるのだった。非日常に対する気持ちの高ぶりであった。

2007年7月13日 (金)

参院選

 争点は、年金(社会保険庁の仕事の悪さと監督者の責任問題)、改憲の是非、政治と金の問題。いろいろ個別の論議はあるが、根本的にこの国をどういう国にしたいのか。あるいはどういう国が暮らしやすい国か、豊かな国かという訴えかけがないように思う。そもそもそんなことは考えていないのか、分からないのか。

 ①限度を超えた過度の競争がない。②敗者にも最低限度の生活が保障される。③命を大切にする文化が定着している。④企業が社会のルールを守る。国民はルールを守らせる。⑤好戦的でない最小限の軍隊。⑤教育の予算をけちらない。⑥浪費を豊かさと勘違いしない。・・・とりあえず、思いつくこと。

2007年7月12日 (木)

外食産業

 渡辺美喜が言うように外食産業ほど規制の入らない産業はない。従って競争は激烈で、構造は流動的である。渡辺は、そのことがより良い店舗作り、より良いメニュー作りを生み出し、消費者に利益をもたらしているという。

 表向きはそのように見える。新しい店ができ、飽きた頃には消えてゆく。価格の安い店ができる。選択の幅が広がったのは事実かもしれない。しかし舞台裏はどうだろうか。チェーン店では社員は長時間労働を強いられている。居酒屋業態は特にそうであろう。ある居酒屋の資料によれば年間3千時間近く労働している。また雑誌等の情報ではサービス業の賃金は総じて低い。また、経営理念を半ば強制的に強いられる。すべてはお客様のためである。それで待遇が悪ければ、社員はお客様の奴隷でしかない。実際現場で汗を流さない経営者は神様のごとくマスコミでもてはやされる。

2007年7月11日 (水)

問題なし

 「問題なし」は最悪の答え、報告である。問題のない状況はない。現実は変化している。理想的な状態で静止しているわけはないので、常に解決しなければならないこと、変えなければならないことがある。そういう現実が見えず、問題なしという報告をすることは最悪なのである。もちろん間違った問題の捉え方はありうる。しかし毎日大過なくすごしたと思い込んでいることとどちらがいいだろうか。何の問題解決もせずすごしておれば、いずれ組織は瓦解するのである。問題と感じる意識があれば、仮にいくつかの間違いがあったとしても結果の間違いに気が付き、修正がきくのである。

2007年7月 8日 (日)

高校野球予選観戦

 昨日から大阪府の予選が始まった。今日、万博球場に行って、1回戦の大阪産大付属と市岡商業との試合を見てきた。見る前から分かっていたことだが、産大付属の一方的な試合で5回コールドだった。

 基礎体力も技術も違いが大きすぎた。市岡は守備練習でポロポロこぼしていたし、監督のノックも下手であった。これでは普段の練習ができているとは思われない。

 仕事を考えるとき、われわれのレベルはどれほどのものかと考えてしまう。素質は変えることができない。しっかりしたトレーニングは可能だろう。大事なのは監督、コーチの力である。ひとりひとりの実力を把握して、どこを鍛えるのか明確にする。全体の目標もはっきりさせる。桐蔭やPLのようなチームに仕上げることができるだろうか。

 今日初めて蝉が鳴いた。

2007年7月 7日 (土)

悪いやつら

 松本清張の小説の題名であるが、確かに悪いやつらはいる。しかし、同じ悪でもいくつかの種類がある。また、小さな悪から大きな悪まであるということもできる。

 単に金儲けのために非合法の活動を継続的に、なかば職業として行っている個人および組織がある。詐欺的な行為もあるし、暴力的な脅迫行為もある。最もスケールの大きな悪を巨悪と呼ぶ。こいつらは国民の財産を吸い上げる。いろいろあっても、自分あるいは自分たちはいいことをしているという認識はないであろう。何が悪いかという居直りはあったとしても。

 一方で、政治や宗教的な信条に基づいて行われる行為が、一般大衆の利益と相反する場合がある。これも悪と言えるだろう。無差別のテロなど許されるものではない。

 我々の周りには数多くの悪いやつらがいる。大多数は善良な大衆であるが、悪いやつらに遭遇する確率は決して少なくなく、無防備であってはならないと思う。悪いやつらは始終悪いことを考えており、悪知恵が働く。われわれはそれを上回る知恵を身につけなければならない。悪のない国を造ろうとしている政治家もまた悪を知り尽くしていなければならない。

2007年7月 5日 (木)

同時代のこと

 戦争に苦しむ人たち、圧制に苦しむ人たち、貧困に苦しむ人たち・・・。パレスチナ、イラク、アフガニスタン、北朝鮮、サハラ以南のアフリカ・・・。

 60数億という人類のなかでも平穏に人生を過ごせる人間の方が、少数のように思う。客観的に見て日本人は恵まれている。確かに日本人のなかにも相対的に貧困であり、病気その他の理由で苦しい毎日を送っている人も多い。しかし、概して普通に生きる意思をもち、間違いを犯さず生活していればおびえずに生きていけるのだ。

 しかし、そうやって生きていくことは幸せだとしても、不幸な民族に無関心であっていいのか。関心を持ったからと言って、それを解決する力はない。だが、同時代に戦争に苦しむ人たち、圧制に苦しむ人たち、貧困に苦しむ人たちに思いを巡らすことなく生きることはある意味似非平和状態に貶められているのではないだろうか。

2007年7月 3日 (火)

学問に王道なし 営業に王道なし

 「学問に王道なし」という言葉がある。簡単に言うと、「近道はなく、こつこつと努力を重ねること以外に周りから評価される業績を残す方法はない」という意味である。

 「営業に王道なし」も同じ意味で使うことができる。しかし、よく考えると、正しいとも言えるし、正しくないとも言える。確かに魔法のような抜群の効果がある策があるはずもなく、地道な行動の積み重ねであることは間違いない。しかしほぼ毎日営業活動しているわけだから理にかなったやりかたを粘りづよく続けたかどうか、同じステップでも知恵をつかったかどうかで最終的な結果では大きな差が生じてしまうのである。

 では粘りづよく続けられる人はどんな人か。私は自分の行っていることへの意味付けがしっかりできている人だと思う。「より多くのユーザーに自社の商品を使って満足してほしい」「自分の働きが会社の経営を支え、従業員の生活につながっているという確信」「実績を積んで昇進し、営業幹部になって会社をささえたい」等々。往々にして数字を追っかけがちだが、それでは精神的に苦しい。初心に返って、何のために営業しているのか考え直してみよう。

2007年7月 2日 (月)

私を捨てる

 すごいタイトルであるが、これが悟りの境地である。偉大な人物は無私の心があるという。自分よりも会社(社員)を、自分よりも社会(大衆)を優先して考えられる人のことを言う。決して自分がなくなるわけではないし、欲望をすべて投げ捨てるわけでもない。それはほとんど不可能に近い。自分の幸福の前提に他者の幸福を置くのである。これは考え方の問題である。あるいは態度の問題と言ってもよい。客観的事実として周りの人々をすべて幸福にできると考えるのはそもそも間違いであろう。しかし、それを自分の生き方の柱にするという覚悟の問題なのである。会社の経営が思わしくなく、泣く泣く整理しなければならないときでも従業員の再就職先を最後まで探しきった社長の話など聞くと、会社経営での失敗は褒められたものではないにしろ、無私の人だと思う。そこまでできる人は滅多にいない。

 文字通り私を捨てるためには家族も捨てなければならない。そうなると、それは宗教者の領域である。もはやそれは人間ではないのではないか。社会との関係を断って、祈り続けることで何かが変わるとは思えないが、だからといって、そういう人の行為になにかしらの意味は感じる。比叡山で千日回峰行を果たした僧侶などは、社会になんらの影響を与えていないし、やっていることは狂気の沙汰である。しかし、何かを感じさせずにはおかない。

2007年7月 1日 (日)

失われた20年

 20年は大きい。これから50代に入って今まで蓄積した力を発揮する時期であるが、鍛えながら同時に責任も果たさなければならない。密度の高い時間の過ごしかたが求められる。

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