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2007年5月の投稿

2007年5月31日 (木)

失敗談Ⅰ

 高校は隣町にあり、国鉄の列車で通学していた。今でも同じであるが、電化されておらずディーゼル車であった。

 それは学校からの帰りの出来事である。その時駅で上りと下りの列車が停車していた。私は下り列車の座席に座って上り列車を眺めていた。そうすると、ある席の窓から同じクラスの女子がこちらを見て笑顔で手を振っているではないか。そうか俺に振っているのだなと思って振り返した。しかしだ。よく見るとその女子の視線は私から少しずれている。そうだ、隣の席の別の女子に振っていたのだ・・・。なんと恥ずかしいことか。知らぬ振りしてそっと手を引っ込めた。

2007年5月30日 (水)

どこまでやるか

 普通の人間は何事もほどほどがよいと考えている。限界を設けず、何かを憑かれたように追いかける人間は少ない。

 それぞれ幸福感は違っている。ほどほどが一番いいのだと思っている人が多いのだ。もちろん所得面でいえばほどほどは中間層を表しており、それすら維持することは今や難しいことであるから、それを望むことは安易なことだとも決め付けられない。

 人間は物や金だけで充足するわけではない。メンタルな充足を求めて目標を追うことは近代に生きる人間の特徴ではないだろうか。私もそれを願ってはいる。しかしとことん追いかける目標、価値、世界観が何なのか、それ自体に曖昧模糊としたものがあるのだ。こういうものはあえて探して見つけるようなものなのだろうか。しかし一ついえるのは年が行けば行くほど出てくる可能性が薄まっていくということだ。そこに私の焦りがある。

2007年5月28日 (月)

電話ボックス

 最近電話ボックスの数が減ったし、その中で電話をしている人は滅多に見ない。かつては空いているボックスがなくて困ったときもあったというのに。

 東京高田の馬場のビッグボックス横には正確には分からないが20台ぐらいの電話ボックスがあった。ここは待ち合わせ場所として有名なところだったので電話連絡を取る人が多かったのであろう。とはいえ、20年以上前のことなので携帯がない時代であり、もう家を出たかどうかを確かめる程度のことしかできなかっただろう。

 ビッグボックス前で合コンの待ち合わせをしたことがあった。相手は聖心女子大の人で文字通りお嬢さんたちであったはずなのだが、待っても一向に現れない。おそらく遠くから我々を観察して、異常に汚らしい連中なので逃亡したのだろうと判断した。こういうときは怒りたくもなるのだが、自分たちの汚さは自覚していたので妙に納得してしまったのだ。相手が悪過ぎた。

2007年5月27日 (日)

格差社会再考

 三浦展氏の「格差が遺伝する」(宝島新書)を読んだ。書名は出版社が興味を引くようにつけたもので、格差が固定化すると言ったほうが内容を正しく伝えていると思う。

 この本の内容は、アンケートを行い、それを分析していくつかの結論(推論)を示している。読んだ感想としては、おおよそ予想できる内容で、三浦氏の推論もほぼ常識的な線で終わっている。ただアンケート調査を行っているので説得力があるということか。

 いくつかの結論。父親の所得が高いほど、子供の成績がよい。(ただし成績は親の申告による)。父親の所得が高いほど、子供は私立中学へ進む。父親の所得が高いほど、子供の躾ができている。父親の読書時間が長いほど、子供の成績がよい。親が土日に休みがとれる家庭ほど、こどもの成績がよい。こういうものである。

 想像できる範囲内であろう。所得の高い父親は、高学歴が多く、子供も同じように育てたいと思う。学歴と所得の相関が高い事を父親は知っており、子供の将来を考えて教育に投資するのである。所得の高い父親ほど読書をすることは自明のことであろう。若い頃から読書の習慣があり、会社での立場上読まなければならない本も多いのである。

 こういう流れは今に始まったことではないように思うが、より程度がひどくなっている。最近は超難関大学の高校別ランキングは上位を私学が占めている。これは公教育がゆとり教育の考えの下、受験指導に力を入れなかったからである。しかし、公立校も盛り返しつつあり、私学全盛の時代は変わりつつあるのかもしれない。とはいえ、公立高のなかにも序列があり、一部に優秀な子が集中するだろう。いずれにしても高学歴=高所得の図式が変わらないと大きな流れは変わることはなかろう。

2007年5月26日 (土)

松坂の幸運

 松坂大輔が今日7勝目を上げた。5回で5失点だったが、見方が6点取っていたので勝利投手の権利をもったままマウンドをおりて、結局チームが勝利した。数試合好投したが、まだまだ調子は出ていない。それで7勝を稼いでいるのだから幸運である。打線が好調で、松坂が登板するときもよく点をとってくれる。調子が悪いときにいい数字がのこせていることはいい流れで、これから打線が下降気味になったときに本来のピッチングができるようになれば、また勝ち星が積み重なっていくだろう。

2007年5月25日 (金)

愛と欲望

 青年時代は欲望が勝り、愛の希薄な時期である。欲望は肉体の若さの象徴であり、その衰退は若さの喪失である。逆に老化は愛の高まりの条件である。死への接近は愛を高める。生けるものへの慈しみの感情を育てる。

 壮年期は欲望と愛のバランスがとれている時期である。共存の場は家庭である。夫婦がいて、子がいれば成長の場となる。欲望は力の表現であり、愛は平和への渇望である。

2007年5月24日 (木)

ランキング

 週刊東洋経済や週刊ダイアモンドなどの経済誌には特集記事があって、いくつかのテーマを順番に回している感がある。

 たびたび見かける特集は、企業別年収あるいは生涯賃金ランキング、職業別年収ランキング、就職に強い大学、学部ランキング等々であって何でもランク付けしたがる。これを何十万人という他人が喜んで(かどうか)読んでいるのである。

 自分の位置を知りたいという欲求からであろうか。位置を知って何を満たすのか。上位ではないが、俺の下にはまだまだたくさんのサラリーマンがいることを知って安心するのではないだろうか。何とかしてもっと上へ行きたいと思ったり、こんな格差はおかしいと思って憤る人は例外である。

2007年5月23日 (水)

医学部

 出来る生徒は医学部を目指す。この医学部志向は今も昔も変わらぬようだ。進学校のなかでも飛び切りできるやつは東大の理Ⅲに行ってしまう。こういうやつは研究者肌で金儲けはあまり考えないと思うが、どれだけ社会の役に立つかを考えると首を傾げたくなる。画期的な治療法を発見することにより数多くの患者を救うこともありうる話であるが、まれであろう。他方一般の開業医になったとしたら相対する患者の数は多くはない。

 何が言いたいかというと、優秀な人間が医学部に集中しすぎて、社会の進歩に必要な人材として育ってほしい政治や経済の分野が手薄になることなのである。教師や親はもっと社会に貢献することの価値を教えるべきである。優秀な頭脳にポリシーが結びつけば大きな力を発揮することだろう。

2007年5月22日 (火)

交通の要所

 私のマンションのベランダからは新幹線のホームが見える。また在来線の新大阪駅のホームも見える。ベランダから見て右側に新御堂筋と地下鉄御堂筋線が走っている。それから、上空を伊丹空港に向かう飛行機がかなり低空で飛んでいく。

 つまり交通機関の集中する場所であり、便利はすこぶるよい。京都へ行くにも、神戸へ行くにも、大阪市内へ向かうにも、東京や福岡に行くのにも便利なのである。特に出張には都合がよい。朝早い出発、夜遅い帰着時は移動時間が少なくて済むのである。疲れも少なくて済むのである。

2007年5月21日 (月)

泳ぎ

 私は泳ぎが苦手である。水に浮くことができない。泳ぎ方も身に着けていない。平泳ぎのような泳ぎ方であるが、足のけり方が分からない。従って腕の力だけで沈もうとする体を前に引っ張って進むのである。だから25メートル進むともうくたくたである。

 まともに泳げるようになりたいとずっと思ってきた。しかし、泳げなければ生活ができないわけではない。スクールにまで行こうと思ったことはない。だが潜在意識のなかにあるのだろう、すいすい泳ぐ自分の姿を夢で見た事は何度もあるのだ。

 泳げないことの辛さは、そういう場面に出くわしたことはないが、溺れている他人を見つけたときに助けることができないことだ。それがわが子であったらどんなにか無念なことであろう。いや、わが子であれば泳げなくとも飛び込むに違いない。

2007年5月20日 (日)

ホーキング博士

 今日、ホーキング博士の本を読んでいた。宇宙についての話なのだが、突き詰めて考えないテーマだけに難しい。よく理解できていないが、「宇宙はビッグバンによって生まれた」「そこから時間が始まった」「時空はゆがむ」「物質とエネルギーが時空をゆがめる」「光は直進するが、空間がゆがむので曲がる」「空間がゆがんだ結果として重力が生まれる」「時間がゆがむということは時間に形があるということ」「地球の自転方向へ飛ぶ飛行機と逆方向に飛ぶ飛行機の時計は極めてわずかであるが、きざむ時刻がずれる」こんなことが書いてあったのである。

 常識的な考え方と違うが、これが現在科学者に広く認められた考え方らしい。時間は過去と未来にむけて永久に続くものだという感覚がある。人類の存在はその間の一コマにすぎないが、それとは無関係に永遠の時間が存在すると思っているのではないだろうか。

 日常生活のなかでは考えることも無いような話だが、こういう本を読むことによって人生観に少なからず影響を与えるかもしれない。

2007年5月19日 (土)

考えることと感じること

 パスカルは人間は考える葦だと言ったらしいが、実際生活のなかで、どれだけ考えているだろうか。意外に考えておらず、考えなくても生きていけるのである。

 仕事はマニュアル化あるいはパターン化しており、考えなくてもある程度のことは出来る。もちろん今までとは違うことをやろうとすれば考えなければ進まない。しかし惰性に流されることが多い。

 本を読んでいると考えているような気になるが、字面を追っているだけではほとんど考えたことにはならない。書いてあることに対して自分の意見を持って初めて考えたことになるのである。

 考えるには感じることが必要である。感じることが引き金にならないと考えることはしない。心を動かせることが考える葦への成長の始まりなのである。

2007年5月18日 (金)

安倍晋三

 安倍は希代の卑怯者である。靖国に行ったか行かなかったか言わない。供物をしたかしなかったかに言及しない。政治家には信念が必要だ。自分の考えていることは率直に語らなければならない。政治家同士では化かしあいもあろうが、国民に向かっては本音を語らなければならない。その点小泉は自分の思いはストレートに表現した。内容は兎も角。

 しかし、その安倍も憲法に関しては直球勝負だ。われわれは反改憲勢力として、団結してその球を打ち返さねばならない。卑怯者に対してこそ正々堂々とした戦い方がいいのである。

2007年5月17日 (木)

予備校

 私は浪人したので予備校に通った。9月に入学して入試までいたから、正味5ヶ月間であった。大学の近くにあったWゼミナールだったのだが、どの予備校も同じであろうが専任講師とともに小遣い稼ぎに大学の先生も来ていた。

 予備校は目的がはっきりしているから行くのにも躊躇がない。とりあえず入試に合格することだけを考えていればよいのだ。こんな単純な世界はない。

 企業に勤めていると、そうは簡単にはいかない。他人を動かさないと業績は上がらない。他人を動かすことは難しい。何かの「力」が必要だ。権威とか権力とかいうものだ。人徳は権威であり、権力は地位の力である。とにかく社会は単純ではない。そういうところで業績を残してこそ真の実力である。

2007年5月16日 (水)

雨の降る音

 雨の降る音を聞きながらぬる目のお湯につかること。子供のころから好きだったことである。なぜかしら心が落ち着くのであった。しかしマンションに住んでいるとバスに外へつながる窓がない。入浴している時間に天気を感じることは出来ないのだ。

 私は部屋の中のベランダに一番近いポジションにいつもいるので、その位置で天気や季節を感じることができる。ちょうど今も雨が降っていて、しかも気温も適温なので非常に心地よい。これが梅雨の時期に入ると蒸し暑く不快感が襲う。それを過ぎて夏の時期の夕立はまたそれなりに気持ちのよいものである。

2007年5月15日 (火)

住めば都

 「住めば都」という言葉の意味は、どんなところであっても長く住んでいると土地になじんできて住みやすくなるということだ。ところが間違った使い方をする人がいる。

 今は与党となっているK党の選挙候補者がテレビで演説をしていたのだが、この時、この○○区を文字通り住めば都にするために私は頑張りたいと訴えたのである。これを何人かのサークル仲間で見ていたのだが、一斉に笑いが漏れた。なぜ公党であるK党の演説原稿にこんな間違いがチェックされず残されたのだろうか。疑問であった。

 これ以外にも間違った使い方が多くされる言葉、ことわざがある。「情けは他人の為ならず」はその代表的な例であろう。

2007年5月14日 (月)

江戸時代の思想家

 これまた専門外であるが、江戸時代について研究するのも面白いだろう。鎖国が行われて近代化の歩みにストップがかかったが、全く発展を止めていたわけではない。徳川政権の初期には農地の拡大が進んだし、耕作器具の発展もあった。しかし18世紀に入ると停滞し、発展を阻害する因子が育ち始めた。そういう因子が破壊されないと次の段階には進めなかったわけだ。

 そういった矛盾のなかで新たな道を模索する思想家が大勢いた。しかし、我々は高校の日本史に出てくる数人の名前を辛うじて覚えている程度で、その後の人生で彼らが何を考えていたのか関心を寄せる事はない。他方、そういう人でも外国の思想家に触れる機会は多少ある。大学の学問の対象は西洋に偏っている。私の勉強の対象は今なおそうである。しかし、日本人の先人にもそれに負けず劣らず進んだ思考をしている人たちがいたのである。

 荻生徂徠や安藤昌益などを学んでみたい。

2007年5月13日 (日)

推理小説

 今は読まなくなったが嘗ては推理小説というジャンルのものをたくさん読んだ。高校から大学にかけての時期である。読み始めは松本清張の「点と線」であった。作品としてはあまり高い評価ではないようだが、面白かった。そこではまってしまって、以来数十冊読んだ。山の中の別邸に置いてあるので正確に何冊かは分からない。内容までは忘れてしまったが、面白かったのは、「眼の壁」「渡された場面」「Dの複合」などである。清張は社会派推理小説と言われるジャンルを開拓し、政界の闇を暴いたりしたが、私が面白いと感じたのはそれとは違う内容のものだったかもしれない。いずれにしてもバラバラに見える事象が徐々につながっていく面白みがあった。

 続いて読み漁ったのは、佐野洋であった。これも20冊程度は読んだ。こちらは清張よりは柔らかい内容で、男女の絡みもあって読みやすかった。

2007年5月12日 (土)

三振前のバカ当たり(大ファール)

 三振前のバカ当たりという言葉がある。これはホームラン性の大きなファウルを打つとその後三振するという定説である。このことをNHKの番組で統計的に実証しようとしていた。しかし、このことは統計などとらずとも論理的に説明することが出来る。

 確率論、技術論、心理学の立場から説明しよう。まず確率論から言えば、ファウルを一本打ったからストライクが増え、バッターからすればカウントを悪くしている。従って三振する確率が高まったことになる。心理学的に見てみると、バッターは大きな当たりのあとは欲が出て長打を打ちたくなる。そうすると振りが大きくなるだろう。そうすると空振りの確率が高まる、技術的に言えば、投手は次は外角に投げるだろう。落としたり、曲げたりしてくる。大きなファウルを打ったということは体が開き気味であるから外角の球に目が付かない可能性が高い。

 以上可能性の問題であり、賢い打者なら外角を予想して短打をねらうだろう。

2007年5月11日 (金)

横山ノック

 横山ノックが逝去した。芸人としては見るべきものがあったが、政治家として、あるいはまた一人の人間として見た場合には、決して敬意を払える人ではなかった。

 芸は、漫画トリオ時代のフィルムを観ると若いせいもあるのだろうが、表情やせりふがみずみずしく、素晴らしいものがある。しかし参議院議員になってからは私の知る限り大した業績もなく、大阪府知事時代には例の事件を起こしてしまった。議員時代にもたまにテレビ出演をしていたが、芸人仲間からも馬鹿にされていたような気がする。死んだ人の悪口は言わないという文化があって批判的なコメントは聞かれなかったが、あんなことを起こしてしまった人間は淋しく消えていくしかないのだと思う。

2007年5月10日 (木)

偶然

 世の中には偶然であるが重要なことが重なって起こることがある。例えばであるが、ヒトラー、チャプリン、ハイデッガー、ウィトゲンシュタインという20世紀の前半を代表する人物が同じ年に生まれている。また、マルクスが亡くなった年にケインズとシュンペーターが生まれている。

 こういうつながりを発見するのは、あるジャンルに関心のある人が、その世界で発生したことに何らかの関係性を見出そうと意識的に情報を整理するからだろうか。茶道にしか関心のないひとは、上記の偶然など発見しようもない話である。千利休は戦国武将のだれそれと同じ年に生まれたとか、そういうことには気がつくかもしれない。人間は自分が知る範囲で何らかの関係性や法則性を見出そうとするのである。範囲が広ければ広いほどダイナミックなつながりが発見されるであろうし、必然の領域も広がるのである。

2007年5月 9日 (水)

チェック機能

 権力を持った(付託された場合も含め)個人や組織には必ずチェック機能を働かせる機関が必要である。最初は周囲の意見に聞く耳を持っていても、長く権力を持っていると自分の判断が最良だと思い始める。これは資本主義だろうが社会主義だろうが区別はない。ただし、社会主義が革命を経て樹立された権力であるために極度に中央に権力が集中しており、路線変更が難しいとは言えるだろう。周囲に成熟した労働者階級およびそこに連帯した良質の知識人集団がおり、チェック機能を働かせる必要がある。

 資本主義においては経済における均衡理論とのアナロジーで二大政党制が考えられ、一方に偏ることなくバランスが保たれるという。しかし二大政党の政策はよく似ており、政権交代があっても根幹の部分は引き継がれる。もっと大きな違いのある政党が存在することによって新のチェック機能が働くのではないだろうか。

2007年5月 8日 (火)

思いが人生を作る

 自己啓発本によく書かれている言葉だが、経験的に考えて十分説得力のあることだと思う。思いの強さが行動の強さと持続性を生み出すことは間違いない。

 オリンピックの金メダリストが子供のころからメダリストを夢見て、目標にして努力したという話はよく聞く。思い続けること、そして行動を持続することが成功へと導くのだ。

 人間が本気になって課題に取り組んだとき、出来ないことはない。そういう確信はある。ただ、そうたびたび本気になることはないのも確かだ。いつも本気になれる人間とそうでない人間との差は大きい。それがなかなか思い通りの人生にならない理由かもしれない。

 かつて本気になったのは、高校受験の前の2ヶ月間、一日の睡眠を3時間にして勉強に励んだことぐらいかもしれない。一回の経験であるが、やれるという自信は付いた。

2007年5月 7日 (月)

芸風

 芸人には芸風というものがある。私の好きな芸風は徹底的に「ナンセンス」な話芸である。ネタは馬鹿馬鹿しいが、話術は長けている芸人である。名前を挙げると、ケーシー高峰、ポール牧、南州太郎などである。

 私が子供のときからテレビに出ていたから皆相当な芸暦であるが、長い時間をかけて作り上げた話芸は大したものである。ケーシー高峰は一度病気をしたが、復帰して現役を続けている。ポール牧は坊さんになってしまった。南州太郎はごくまれであるが、笑点などで見かけることがある。

 いつまでたっても下手な芸人もいるが(例えば高松しげおの漫談)年季のはいった芸は参考になる面が多い。

2007年5月 6日 (日)

少子化の原因

 少子化が問題となってる。経済界でも政治の世界でも非常に大きな問題とされている。少子化がもたらす悪影響としては、①労働人口の減少②技術力が低下し国際競争力がなくなる③消費の減少④若者が減ることにより、高齢者の年金を支えることができない。以上のことが言われている。その対策としてはそれぞれ、①外国人労働者を受け入れる。②ゆとり教育の見直しを行う。③これはあまり聞かれない。④支給年齢の引き上げ。減額等。がある。

 以上は少子化が今後も続くという前提での対策であるが、根本的に大事なのは少子化の原因は何であって、それを改善するための対策のとり方である。ある政党は、子供を儲ける世代の経済力の乏しさに原因を見出し、第二子以降に無償の養育費の提供を訴えた。これが有効な対策になるかどうかは原因を正しく捉えているかどうかによる。十分に捉えきれていなければ、ただ単にお金だけばら撒く結果に終わる。

 さて原因であるが、これは多産だった時代との比較。また同じように少子化している他国の分析が有効であろう。ただし、私はこの問題に特化して研究しているわけではないので、限られた情報から推論するしかない。特に前者の切り口から考えてみたい。

 嘗ては、うちは二人まで、うちは三人までという風に、子供の人数をあらかじめ決め、計画的に生んでいくことは少なかった。子供は天からの授かり物であって、出来れば産むのが自然な行為であった。また専業主婦が多く、大家族であったので養育の負荷も小さかった。このように生める環境があったといえるだろう。

 さて今日であるが、核家族化し、妻も働きに出ているケースが多い。女性の学歴が高くなり、家庭に居座っているよりも仕事をしたいという欲求は高くなっている。また主人だけの所得ではかつかつの生活であり、趣味や旅行やブランド品の購入などを実現するには二人分の所得が必要になる。一旦そういう生活に慣れると捨てがたくなる。子供がほしいという欲求もあるには違いないが、失うものも大きいので妊娠への恐怖が生まれる。また、仕事をしてると帰宅が遅くなり、セックスの機会も減少する。

 以上が考えられる一つのパターンである。これに対する対策は、産む期間は別として、それ以外は仕事が続けれれる環境を作ることである。企業によっては子育て支援の施策をとってる。政府も財政出動および行政指導の実施によってバックアップすべきであろう。

 もう一つのパターンは、低学歴者同士の夫婦の場合である。二人とも正社員になれない場合は共稼ぎであっても正社員一人分の所得に満たない場合が多い。この場合は将来を考えると産む意欲は起こらないだろう。出来てしまった場合はかなり厳しい生活を強いられるであろう。児童虐待が起こるのはこのようなペアにおいてではないかと想像される。

 このパターンにおいては、雇用政策の推進がなければならない。月に数万円支給したからといって解決できるようなレベルではない。まず第一子も難しい。

 以上が簡単ながら私の推論である。きっちり対策を打てば、フランスのように出生率を上げる事ができる。根本的な分析が必要なのである。単に生き方に対するものの考え方が変わったからだというような問題ではない。

2007年5月 5日 (土)

憲法

 憲法は国家の制度的柱である。今の憲法はアメリカから押し付けられたものであるという見方がかなり根強くあって、確かに前文が翻訳調なので原文が英語であったことを物語ってはいる。しかし、その根本精神は日本の精神である。特に不戦の誓いは、加害者、被害者両面の経験から導き出されている。

 改憲の論議にあたってはいろいろな立場の意見が錯綜していて、単に形式的な問題として取り扱うわけにはいかない。集団的自衛権を明文化しようという立場は日米同盟を前提としている。その立場は現実的で、他に選択肢はないというのが保守の考えである。戦後の占領期を経て今日までそういう体制をとってきたことは事実であるが、未来永劫そうあらなければならないということではない。今でもアメリカの軍事力が強力なのは変わらないが、相対的には低下している。

 アメリカからの過度の影響力を排するためには、日本の独立性を毅然と主張できる政権の樹立が必要である。その時には対米輸出が制約を受け、かなりの影響を受けかねないが、アメリカ国民にとって真に必要な製品を作っておれば輸入せざるを得ないのではないか。楽観的かもしれないが、経済的な相互依存は生活の基本となっており、政治より根本的なものである。しかし政治というものは一旦狂い出すと人間の運命を左右し始める。狂った指導者を支持しない良識が国民に求められる。

2007年5月 4日 (金)

過剰な集中

 ゴールデンウィークに行楽地に人が押し寄せる。道路は渋滞するし、駐車場は空き待ちで列ができる。遊園地などでは自分の番がまわってくるまで長い間立って待たなければならない。休暇が同時にやってくるのだから当たり前であるように思うが、あまりに極端である。普段は閑古鳥が鳴いているようなところでも混んでいる。キャパが小さいから溢れ出るのである。

 観光地、行楽地に集中するのにも程度がある。皆混雑は予想しているのである。それでも行くのは日本人が我慢強いからであろう。休暇であるのに疲れて帰ってくる。それでもいくらかはストレスの解消になっているのであろうか?

2007年5月 3日 (木)

才能か努力か

 世の中には生来の才能で早々と頭角を現すタイプと若い時代には全く目立たず、じわりじわりと力をつけて名前を知られるようになるタイプがいる。もっともこれ以外の名も知られぬまま終わる人が大半であって、成功した人のなかでの区別である。

 この問題を考えるにはスポーツと受験の世界を取り上げると分かりやすい。なぜなら評価尺度がはっきりしているからである。ビジネスなどになると非常に複雑な世界であり、人間関係も大いに影響するので評価しづらい。

 野球でいえば、投手に早熟なタイプが時々出現する。松坂がそのいい例である。彼は球そのものから言えば高校時代にピークを迎えたと思う。ファーストボールとスライダーの切れは今と遜色なかった。あとは経験のなかで投球術を進歩させるだけである。大器晩成の努力型としては中日の山本昌を挙げたい。30代後半になって円熟味を増した。彼は自ら語っているように少年野球では万年補欠であった。練習を積むことによってじわりじわりと実力を積み増していったのである。ただし柔らかくて大きな体を持っており、それが成功の要素であったことは事実だ。小さい体では通用しにくい。また左腕投手であったことも成功の要素である。左腕は貴重なのだ。

 いずれにしても自分の力を試す場がなくては成長のし様がない。どこに自分のフィールドを見つけるかが大事なのだ。

2007年5月 2日 (水)

ボクシングの名選手

 防衛回数から言えば、具志堅用高の13回が圧倒的である。コンビネーション抜群のきれいなボクシングであった。しかし軽量級のため迫力には欠け、また層が薄かったので強敵も少なかった。

 記憶に残るボクサーは大場政夫である。オーランド・アモレス戦とチャチャイ・チオノイ戦では1ラウンドにダウンを奪われ危機的な状況だったが形成をひっくり返してKO勝ちした。在位のまま自動車事故で亡くなったのも印象を強くした。

 もう一人挙げるとすればガッツ石松であろう。層の厚いライト級で5回防衛している。幻の右といわれたハードパンチで一発で倒す力をもっていた。

2007年5月 1日 (火)

ミスジャッジ

 私の好きなスポーツは、「野球」(プロアマ問わない)「陸上競技」「ボクシング」である。ボディビルもスポーツの一種かもしれないが、あえて言えばアートであろう。肉体を通した「美」の体現化である。そういうものとして日々取り組んでいる。それは前に書いたように老いとの戦いでもある。

 元に戻り、昨日ボクシングの試合を観戦してきた。大阪IMPホールでの若手育成マッチである。そのなかの一試合、6回戦の橋口対川口の試合であるが、結果は2対1の判定で川口の勝ちであったが、どう考えても川口の3対0が正しい判定であった。素人の私が見ても3ポイント川口が勝っていた。なぜジャッジの一人はこんな間違いをしたのだろうか。リングサイドは圧倒的に橋口のファンが多く、声援が飛び交っていた。その雰囲気に影響されたと考えざるをえない。それとも橋口が所属する金沢ジムと特別な関係にあったのか。後者のことは考えないでおこう。邪推かもしれぬ。

 はっきりとした判断基準がないと周囲の声に惑わされる。プロボクシングの場合はヒット数とダメージで計られるから、はっきりとした差がある場合には、間違えることはないであろう。僅差の場合はジャッジの着目するポイントによって差が出るか、残ったイメージの差であろう。川口の場合は圧倒的にヒット数が多かった。間違いはない。

 ちなみに、川口は三重県熊野市の出身であり、私と同郷と言ってもいいだろう。これからも応援したい。

 

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